袴とは
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袴とは

袴とは

和服の一種で、着物を着用してから裾をたくし上げ、腰から下に着付けて着用するものです。
洋服でいうズボンやスカートにあたり、形状は前と後ろの布からなり、袴の上部に縫い付けられた紐を腰に結びつけて着装します。

袴は今日では着用シーンは行事などに礼装として着用する第一礼装の紋付羽織袴や、日本独特の技芸、剣道、弓道、能、神宮の装束、行事祝、お正月や茶道など稽古事、居合などで伝統ある袴が用いられます。
通過儀礼では幼児の成長を祝う、七五三の祝い着など、正装としての羽織袴の着用や、卒業式などには二尺袖の着物とあわせた女学生の卒業式の袴姿としてすっかり定着しました。

その袴は原初的な形態が見られるのは各地で発掘される埴輪からみられるように、
古代より袴の原型となるものが用いられ、近世より急速に発展していきました。

はかまの歴史は古く、「はかま」の「はか」には,腰より下に帯をはく,「ま」にはまとうの意昧があり、元は,腰に巻きつけらとくびこんれた布(犢鼻褌/たふざき)であったものが,今日の上衣の上につけ、腰から下を覆う丈の長い衣服として定着しました。
漢字も「袴」「褌」「婆加摩」「八加万」「穿裳」など様々な文字があり、変遷の歴史の深さが伺えます。

袴の形状は埴輪の形状から推察するに、大陸の北方諸族の防寒と乗馬に適するように作られた胡服系統や、仕事着及び,庶民の袴である山袴は台湾高地族,インドネシア諸族の袴と類似していたりと、袴の形状は大陸の民族服と深く関わり合っていることがわかります。

袴の変遷

股(また)があり両足をそれぞれ通してつける衣を「はかま」といい、股のないものを裳(も)といいます。
袴は大陸からの影響を受け、時代とともに発展して形状や材質は変化していきました。
原始は古墳時代まで遡ります。男子は衣褌(きぬはかま)といい、緩やかな太いズボン形式のもので、丈は足首まで、外出するときは膝下を脚結(あゆい)という紐で結び動きやすくしていました。女は衣裳(きぬも)の服装でスカート状でした。
飛鳥、奈良時代は中国大陸文化の流入により、風俗が唐風に変化したため、袴が細くなり、上衣も長くなり、裾口しか見えなくなります。
この頃にズボン式のものと現代のもんぺの形状に近い括緒袴(くくりおばかま)という裾口に紐を通して締める二様式に別れた。
この二様式が後の表袴(うえのはかま)、指貫(さしぬき)に発展します。貴族の女性はこれを下着として用いました。
平安時代は貴族男子は礼装の束帯の時、下袴(したのはかま)の大口袴の上に白の表袴(うえのはかま)をつけます。表袴(うえのはかま)は前開き形式のもので、表は白、裏は紅でした。
これにつぐ礼服の衣冠、直衣、狩衣を着る時にはく袴は下袴の上に指貫という、裾がひもでくくれる袴を上に履きます。
一般男子はす姿の補足短い水干小袴を用います。

女性も宮廷の裳形式が変化して,下袴が表袴に変り,十二単の装いとして,緋の袴を右脇で紐で結んで穿きました。
この頃の女性の下着として袴は用いられていました。

鎌倉時代は武家社会となり、力強さを表現する直垂が用いられます。
下級物資の間では膝より上の丈の短い四幅袴(よのばかま)が用いられ、女房装束も単純化し、この頃から現在の和服の原型である小袖(こそで)という袖幅と袖丈が短い和服が馴染みます。
袴は儀礼的なシーンで着装することが増えます。
室町時代には直垂、大紋、素襖(すおう)が武士の礼服となり足を隠す風習が生まれました。

安土桃山時代は衣服が簡略化され、女子は小袖に細帯、男子は肩衣半袴、礼服には長裃(ながかみしも)となります。
江戸時代には袴の形状が変化し、腰幅に大して裾幅が広くなり、全体的に三角形に近いシルエットになります。
現在の馬乗り袴と呼ばれる襠高袴もこの頃に流行し、旅行用など長距離の乗馬の際に愛用された。
江戸後期にはほとんどの女子の袴姿はみられなくなりましたが、明治時代に入り西洋文化の影響によって明治8年,東京女子師範学校の制服として,男袴が採用されましたが、女子が男の袴を着用するのは奇異とされ、新聞紙上で盛んに攻撃の対象となりました。
後に女学生の制服として男子の袴と違った襠(まち)(股/また)のない、スカート状の行灯(あんどん)袴が考案されました。
スカート状の袴はトイレの便が良く、背中に腰板もなく優美で実用的でした。
裾を気にすることなく颯爽と歩くことが出来る袴姿は、新しい時代の女学生の若々しい姿を象徴するものとなったのです。